第1話 最後の想い

静寂に包まれた住宅街の夜。街灯の光がぼんやりと道を照らし、虫の音だけが響いている。藤原家の二階建ての家も、いつもと変わらない穏やかな夜を迎えているはずだった。

幼い晴樹は、父親と一緒にリビングで過ごしていた。藤原誠はAランクの異能者にして分子構造の研究者。橙色の紋章を持ち、分子を操作する能力で数々の研究成果を上げてきた。今日も遅くまで研究所で、異能を使った実験を行っていた。

「お父さん、見て見て」

晴樹が積み木で作った塔を自慢げに見せる。誠は微笑みながら、左手に橙色の紋章を浮かべた。

「Moleculae cohaerent(分子よ、結合せよ)」

軽い詠唱と共に、積み木の分子構造を僅かに強化する。これで簡単には崩れない。

「すごい!お父さんの力って便利だね」

晴樹は無邪気に喜ぶ。誠にとって、この程度の異能使用は呼吸のようなものだった。5年前、恩師を事故で亡くした時に発現したこの力。恩師の最期の想いが、誠に橙の異能を与えた。以来、研究と家族のために、この力を使い続けてきた。

二階では、妻の美智子が家事を済ませて休んでいる。異能を持たない一般人の彼女だが、誠の力を理解し、支えてくれる大切な存在だった。

「そろそろ寝る時間だよ」

誠が晴樹の頭を撫でようとした時、異変が起きた。

窓ガラスが震え、地面が微かに揺れる。それは地震ではない。何か巨大なものが、この街に近づいている証だった。誠の研究者としての勘と、異能者としての感覚が、同時に危険を察知する。

「お父さん…?」

晴樹が不安そうに誠を見上げる。誠は立ち上がり、窓の外を警戒した。

「大丈夫だ。お父さんが守るから」

その言葉と同時に、家の前の道路に巨大な影が落ちた。

それは、かつて人間だったものの成れの果て。人ならざる者だった。身長は3メートルを超え、筋肉は異常に膨張している。皮膚は黒く変色し、所々から骨のような突起物が飛び出していた。目は赤く光り、理性の欠片も感じられない。

「なぜこんな住宅街に…」

誠は呟く。人ならざる者の出現は、通常は組織が事前に察知し、処刑人が対処する。それがこんな場所に突然現れるなど、あり得ないはずだった。

理由を考える暇はなかった。人ならざる者の赤い瞳が、藤原家を捉えた。次の瞬間、凄まじい速度で突進してくる。

「伏せろ!」

誠は晴樹を抱きかかえ、横に飛んだ。直後、家の壁が粉砕される。木材が飛び散り、埃が舞い上がる。

「きゃああああ!」

二階から美智子の悲鳴が聞こえた。階段を駆け下りてくる足音。

「あなた、これは一体…」

「美智子、晴樹を連れて逃げろ!」

誠は叫びながら、左手の橙色の紋章を輝かせた。Aランクの異能者として、この程度の敵なら対処できるはずだった。

「Materia dissolvere(物質を分解せよ)」

橙色の光が放たれ、人ならざる者の右腕に直撃する。分子レベルでの分解が始まり、腕が崩壊していく。しかし、人ならざる者は怯まない。むしろ、より凶暴性を増したように咆哮を上げた。

異常に速い再生能力。崩壊した腕が、見る間に復元されていく。

「再生型か…厄介だな」

誠は戦術を変更する。より強力な詠唱を紡ぎ始めた。

「Atomos separare, structura destruere(原子を分離し、構造を破壊せよ)」

今度は全身に橙の光を纏い、出力を上げる。人ならざる者の胴体を狙い、分子分解の光線を放つ。命中し、巨体に大きな穴が開く。

だが、それでも人ならざる者は止まらない。穴が塞がり、さらに巨大化していく。

「なんという生命力…」

誠は焦り始めた。このままでは、家族が危ない。美智子と晴樹はまだ家の中にいる。逃げる時間を稼がなければ。

「お父さん、がんばって!」

晴樹の声が聞こえる。その純粋な応援が、誠の心に火をつけた。

守らなければ。何があっても、この子と美智子を守らなければ。

その強い想いが、誠の限界を超えさせた。

「Maximum potentia!(最大出力!)」

橙色の紋章が、今までにない輝きを放つ。Aランクの限界を超えた力。それは、Sランクに匹敵するほどの出力だった。

「Omnis materia, ad nihilum!(全ての物質よ、無に還れ!)」

巨大な橙色の光が、人ならざる者を完全に包み込む。分子分解が加速度的に進行し、巨体が塵のように崩れていく。ついに、人ならざる者は完全に消滅した。

勝利した。家族を守れた。誠は安堵の息をついた。

しかし、次の瞬間、激痛が全身を襲った。

「ぐあああああ!」

橙の紋章が制御不能なほど激しく明滅している。限界を超えて力を使った代償。異能細胞が暴走を始めていた。

手の皮膚が剥がれ落ち、筋肉が露出する。そして、体が異形に変化し始める。身長が伸び、筋肉が膨張し、皮膚の色が変わっていく。

これが、人ならざる者への変貌。異能の使い過ぎによる、避けられない末路だった。

「お父さん!」

晴樹が駆け寄ろうとする。

「来るな!」

誠は必死に制止した。今の自分に近づけば、晴樹まで分解してしまう。橙の光が制御できずに周囲に放射されている。

「あなた…嫌よ…こんなの嫌…」

美智子が泣き崩れる。夫が、人ならざる者に変わっていく。5年前に異能を得てから、いつかこうなるかもしれないという恐怖は常にあった。それが現実になってしまった。

誠は最後の理性で、三人のことを考えた。

晴樹。まだ幼い息子。この子には無限の可能性がある。必ず強く生きてほしい。

美智子。愛する妻。異能を持たない彼女が、これからどうやって生きていくのか。

そして、渚。研究所の同僚であり、かつての恋人。彼女なら、きっと晴樹たちを助けてくれるはず。

この三人に、最後の想いを向ける。自分の死が無念なものになるなら、せめてこの想いが、彼らの力になってほしい。

「お前を…守れて…よかった…」

かろうじて人間の言葉を紡ぐ。それが、晴樹への最後のメッセージだった。

その時、新たな気配が現れた。黒いマントに身を包んだ者たちが、闇から姿を現した。処刑人部隊。人ならざる者を「浄化」することを使命とする、組織の特殊部隊だった。

リーダーと思しき男が前に出る。彼の左手には、深い黒の紋章が浮かんでいた。

「藤原誠。Aランク異能者。残念だが、君はもう人間ではない」

機械的な、感情のない声。誠のことを知っているようだった。組織のデータベースには、全ての異能者の情報が登録されている。

誠は、まだ残っていた理性で状況を理解した。自分はもう、排除される側なのだと。

処刑人のリーダーが詠唱を始める。

「Umbra mortis, forma gladii(死の影よ、剣の形を取れ)」

黒い紋章から、影のような物質が噴き出し、巨大な刃物の形を作る。

別の処刑人も動く。赤い紋章を持つ者が詠唱する。

「Gravitas maxima, corpus frangere(最大重力よ、肉体を砕け)」

誠の体に、凄まじい重力がかかる。地面に押し付けられ、骨が軋む音が響く。

さらに青い紋章の処刑人が加わる。

「Spatium constringere(空間を圧縮せよ)」

誠の周囲の空間が圧縮され、身動きが取れなくなる。

三人のA+ランク処刑人による連携攻撃。それは、どんな人ならざる者も逃れられない、完璧な処刑方法だった。

リーダーが影の剣を振り上げる。

「藤原誠。君の研究成果は組織が引き継ぐ。安らかに眠れ」

剣が振り下ろされ、誠の胸を貫いた。影の刃は、生命力そのものを切り裂く。橙色の光が急速に弱まっていく。

さらに、容赦なく切り刻まれていく。腕が、脚が、次々と切断される。血が飛び散り、地面を赤く染める。

誠は最後の瞬間、もう一度三人のことを想った。

晴樹、美智子、渚。

この想いが、必ず届きますように。

左手から、結婚指輪が滑り落ちる。銀色の指輪が、血溜まりの中で鈍く光った。

そして、誠は息を引き取った。

処刑人の一人が、遺体に向けて詠唱する。

「Ignis purgatorius(浄化の炎よ)」

赤い炎が遺体を包み込み、完全に灰にしていく。

別の処刑人が、血溜まりから結婚指輪を拾い上げる。

「コアか。回収しておく」

彼らにとって、それは単なる任務の一環でしかなかった。

「返して!それは父さんの…」

晴樹が叫ぶが、処刑人たちは振り返りもせずに闇に消えていった。

その瞬間、美智子に異変が起きた。

夫の死、その無念の想い。誠が最後に美智子のことを想ったことで、彼女に異能が発現したのだ。左手に青い紋章が浮かび上がる。

しかし、その力は制御できなかった。夫を失った悲しみ、恐怖、絶望。全ての感情が異能と共鳴し、暴走する。

青い光が美智子を包み込み、彼女の周りに見えない壁を作り出した。それは外界を完全に拒絶する結界。美智子は自らが作った檻の中に閉じこもり、膝を抱えて座り込んだ。

もう片方の結婚指輪を握りしめ、虚空を見つめる。口を開くことも、動くこともない。完全な廃人と化してしまった。

「お母さん!お母さん!」

晴樹が必死に呼びかけ、結界を叩くが、母の意識はもうここにはなかった。触れることも、声を届けることもできない。

同じ頃、研究所では白鳥渚が突然倒れていた。誠の死の瞬間、彼の想いが渚にも届いたのだ。彼女の左手に、橙色の紋章が浮かび上がる。誠と同じ、分子操作の異能。

「誠さん…」

渚は涙を流しながら、この力の意味を理解した。これは誠の最後の贈り物。彼の想いと共に生きていく証。

その夜、一つの家族は永遠に引き裂かれた。

父は命を失い、母は心を失い、そして晴樹は、全てを失った。

これが、物語の始まりだった。